私共は平成25年2月3日、「一般財団法人海の里創造基金」として発足いたしました。
震災から3年の月日が経ちますが、被災地では移転先にも元の場所にも家を建てられず、
店舗や住まいが仮設の方々も多く、畑も再生出来ないところがまだまだあり、住民の方々に
とっては復興したとは言えないのが現状です。
一昨年、気仙沼階上(はしかみ)地区の支援を目的に「海の里創造プロジェクト」を
立ち上げ、同地区の住民の方々が設立した「NPO法人海べの森をつくろう会」と
復興を目指し協働しているところでございます。
また、震災の風化を防ぐことと被災地へは足を運べないが関東でも出来る復興支援の
形として「気仙沼屋台祭り」「宮城げんき市場」の復興マルシェを開催いたしてまいりました。
一般財団法人海の里創造基金は、海の里創造プロジェクトの目的ならびに活動を発展的に引き継ぎ、
NPO法人海べの森をつくろう会と共に継続すべき復興支援として、減災効果と住民の方々の希望となる「海べの森構想」
「御伊勢浜海岸復活」「地場産業の支援」を中心とした人々が集う街の創造に努めてまいります。
更には昨年首都圏で4回開催いたしました復興マルシェを「東北げんき市場」として継続開催し、被災地の現状を知っていただくための講演なども開催していく予定でございます。
復興支援の火が消えないよう一層の努力を続ける所存でございますので、皆様方のご協力とご支援をお願い申し上げます。
一般財団法人海の里創造基金の設立にあたり、一言、お祝いを申し上げます。
平成23年3月11日に発生いたしました東日本大震災以降、日本国内はもとより
世界各地から、物心両面にわたり大変心温まるご支援とご協力をいただき、
心より感謝と御礼を申し上げます。
中でも、当財団理事長の森山様をはじめ皆様方には、震災直後から本市復興に
多大なるご尽力をいただいており、気仙沼市内でも甚大な被害を受けた波路上地区における
植樹や墓石の整理、地元のNPOとの協働による減災のための「海べの森づくり」など、
まさに被災地の実情に応じた継続的な復旧、復興支援活動を展開していただきました。
加えて、本地域産業の支援として海産物をはじめとする特産品の販路拡大を目的とした
首都圏でのイベント開催などに積極的にも取り組んで来られました。
このような活動は、我々被災地にとって、大変ありがたく、復興を進める上で大変大きな
力となっており、市民を代表いたしまして改めて感謝と御礼を申し上げます。
震災から3年が経過し、震災直後の混乱期からいよいよ本格的な復興の段階へと
移っておりますが、未だに3,000戸以上の市民が仮設住宅での生活を余儀なくされ、
地盤沈下による浸水被害も応急的な措置はされているものの、土地全体の嵩上げなど、
本格的な復興にはまだ時間がかかるというのが現状です。
本市では今後とも「海と生きる」を副題として掲げた震災復興計画のもと、防災集団
移転事業や公営住宅の建設、土地区画整理事業などの様々な復興事業を進めて
まいりますので、皆様方には、なお一層のご支援、ご協力をお願い申し上げます。
結びに、一般財団法人「海の里創造基金」の今後益々のご発展とご活躍、会員の皆様の
ご健勝をご祈念して、お祝いの言葉といたします。
一般社団法人海の里創造基金の設立、おめでとうございます。
震災により大きな被害を受けた市域にあって、これまでの森山理事長をはじめ
皆様方の活動は復興に向かって歩む私たちにとって大きな励みになっております。
心から感謝を申し上げます。
特に産業振興においては「気仙沼屋台祭り」「宮城げんき市場」を開催していただくなど、
売り先を失い、希望を失いかけていた中で私たちに機会と元気を与えていただき
産業再生の強力な後押しとなっております。
今般の一般財団法人化により、これまでの活動がより進化し持続的なものになりますことを
ご祈念いたしますとともに、私も評議員の一人としてともに被災地の復興に精励して
参りたいと思いますので、今後ともご協力とご支援をよろしくお願い申し上げます。
2011年4月、震災後の避難先で新学期を迎えなければならなかった県立高校生の皆さんを、
神奈川県でも、同じ県立同士のネットワークで100人あまり御預かりいたしました。
神奈川県教育委員だった私は、神奈川県立高校にいらした生徒さんたちが寂しくないよう、
交流会を開催したり、様々なお手伝いをしたりする取り組みを行っていたのですが、
その折、福島から転校していらした女子生徒の一人が「○○さんはあんなに素敵で
頭が良くて、人気者だったのに亡くなってしまった。私なんか勉強もスポーツも何の
取り柄もないのに生きていていいのだろうか・・・」とため息をつかれたのです。
どう応えたらよいか、胸を抉られる思いに言葉も出ませんでした。
すると、何人もが次々に、「来年受験だけど、転校生でも学校推薦をいただけますか?」
とか「進学したかったのだけど、知らない街で就職しないと・・・」とか、全身全霊で
受け止めようにもどうにも張り裂けそうな思いを吐露されたのです。
たまたま「被災地」に住んでいなかっただけで、私たち皆が震災で深く傷ついたことに
変わりはないはずです。
たまたま「被災地」に住んでいないだけで、目を背けるわけにはいきません。
特に、鎌倉は、震災のちょうど一年前に樹齢800年と言われた鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れ、
あるべきものが無い喪失感を深く味わった後でした。被災地の子供達が書いてくれた
メッセージの中に「泣ぐな、笑え!」という色紙があり、くぎ付けになりました。
非力な私たち一人一人にできることは限られているでしょう。
しかし、一緒に泣くことはできる。一緒に笑うことはできる。
津波に洗われた海岸に立ち、「あの時」から時計が止まってしまったままでいるのを
感じた時、もしかしたら、ほんの少しずつでも、時計の針を動かすことができるなら・・・
と念じつつ、この活動に参加させていただきたいと思います。